最終更新日 2022年7月26日
人と一緒に居ると疲れる。
長時間一緒に遊んだりできない。
どんなに仲がいい人でも、数時間後には解散して一人になりたい。
そんなことを言うと、いつも「変わってるね」と言われる。
人間関係を築くことは、物心ついた頃から周りの大人たちに教えられることである。
小学生になれば友達を多く作ることを前提に「友達100人できるかな」なんて歌を歌わされ、「友達を大事にしなさい」と耳にタコができるほど教えられる。
あたかも誰もが友達を必要としていて、友達と一緒にいることが子どもの幸せであるかのように大人たちは考えている。
しかし、それは真実なのだろうか。
「周りと違う=おかしい人」
大人たちはよく「人は一人ひとり違う」という事実から目を背ける。
特に子どもに対しては、「周りの子どもと同じになる」ことを望み、「一般的な子ども」からはみ出さないように注意する。
自分の子どもが少しでも周りの子どもと違うと不安になり、大人が持つ「理想の子ども像」を元に子どもの性格を丸く削っていく。
これは子どもだけに限らず、会社の中でもおこなわれていることだ。
大人たちは会社や社会に飼い慣らされ、個性を削られては何でも言うことを聞く従順な人間になることを求められる。
会社や上司に従属し、いざとなったら上司の身代わりにクビになるような存在である。
「人間関係を充実させるべき」という意見も、結局のところ「人間」を単純化し、一般的的な解釈を当てはめているだけに過ぎない。
だからこそ、人間関係を疎かにする人や、人付き合いが苦手な人は変人扱いされる。
「周りとは違う」という事実が「人間的にどこかおかしい」と拡大解釈されてしまう。
一人でいるのが「好き」で「普通」
私が他人と長時間一緒にいることができないのは、決して人間嫌いだからではない。
自分も含め、人間は本質的に醜いことを理解した上で、自分も他人もそれなりに愛そう割り切って生きている。
本気で人間が嫌いなだったなら、とうの昔に自殺していただろう。
私は多分ほかの人よりも「一人の時間」が好きなのだと思う。
特に何かをしているわけではないが、ただ「一人でいること」「無音の中にいること」が好きなのだ。
ボーッとしてる時もあれば考え事をしてる時もある。
壁の一点をずーっと眺めている時もあれば、目をつぶって瞑想してるときもある。
少なくとも、あまりこういうことが好きな人はいないだろう。
でも、これが私にとっては「普通」なのだ。
普通という言葉は個人の解釈でいくらでも変わるものであって、世間一般が抱く「普通」も多数派の意見でしかない。
多数派は「多い」だけで、「正しい」わけではない。
普通という言葉の正しい解釈なんてどこにも存在しない。
あるのは1人ひとりの「普通」だけである。
幸福感は一人ひとり違う
一般的には、一人きりになることはあまり好ましく思われていない。
「一人=孤独」という解釈が強く、一人でいることは寂しい、悲しい、空しいという感情と結び付けられるからだ。
できるだけ人と交流し、気の合う友達と遊び、好きな異性と一緒の時間を過ごし、みんなで笑って楽しく生きる。
これが現代の大多数が抱く幸福観である。
だが、それも「大多数の幸福観」であって、私の幸福観ではない。
人間関係こそ人生でもっとも大切なものだ、と思っている人にはわからないかもしれないが、私にとっては「一人きりの時間」こそもっとも心が安らぐ時間なのだ。
何度も言うが、別に人間嫌いなわけではない。とにかく一人の時間が好きなのだ。
友達と遊ぶ日もあるけれど、数時間後には一人になりたくなる。
誰かと話すのは楽しくても、次第に楽しさよりも精神的な疲労のほうが上回ってくる。
楽しいけど疲れる。私の場合はその導火線が極端に短いのだ。
だから人と長時間一緒にいることができない。
でもそれは、本当にそんなにおかしなことなのだろうか。
人恋しさを感じることが人間らしさ
私は自分で自分のことをめんどくさい人間だな、と感じることがよくある。
むしろ、感じない日がないぐらいにめんどくさい自分にめんどくささを感じている。
そして、そんな自分をどこか冷めた目で見つめるもう一人の自分もいる。
「お前は本当は人付き合いがしたいんじゃないのか?」
「一人がいいなんてのは強がりで、本当はうまく人間関係を築けない自分を守ってるだけなんじゃないのか?」
30年前後生きていて気づいたのは、「人生は自問自答の足跡に過ぎない」ということ。
自問自答して一歩前に踏み出す。
そしてまた次の問いが現れ、自分なりの答えを見つける。
そうして進んできた道のりを振り返ったとき、人は「人生」と呼ぶ。
何が自分にとっての正解かは、一つひとつの問いに答えていかなければ見えてこない。
人間関係についての問いはきっと死ぬまで尽きることはない。
たとえどんなに孤独を愛していても、人間である以上「人恋しさ」からは逃れられないのだ。
そんな矛盾した思いに「人らしさ」を感じる、7月の夏である。
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