社会や他人に合わせられないのは「大人になりきれていない」からなのか。




Pocket

最終更新日 2022年8月12日

自分は普段社会と調和しながら生きていくのが苦手なので、自分の世界に閉じこもってしまうことがある。

学生の頃から先生に「お前は協調性がない」と何度も言われたし、それは自他ともに認める点でもある。

大多数の人たちに合わせながら生きることも苦手だし、友達の間のブームとか世間で流行ってるものとかを押し付けられるのも死ぬほど嫌いだった。

だから一般的に「知ってて当たり前のこと」みたいなのも知らないことが多かったし、それによって集団から孤立することもあった。

でも本人はそんなことどうでもいいと思ってたし、実際にどうでもよかった。

自分が興味を持てない事柄に興味があるフリをしてやり過ごすことほどめんどくさいことはないし、知らないものは知らないし興味のないことも興味はない。

知識においてはわかったフリをするのが一番ダメなことと同じように、特定のトピックについて知ったかぶりをするのも愚かな行為である。

そんな10代を過ごしていたからこそ、大人になっても協調性はないし社会に迎合したくないし時間的な束縛とか気持ちの面でも縛られたくないと思ってるのだろう。

「自分の意思に反したことはしない」と言えば響きはいいかもしれないけど、自分の場合は単純に「大人になりきれていない」のかもと思ったりもする。

 

一般的な「大人」の定義

世間的かつ社会的な「大人」の定義がどんなものなのかは知らないけれど、ざっくりと言えば「経済的かつ社会的に自立しながら感情のコントロールができる人」が大人だと思ってる。

でも、この定義からすると20歳を超えただけの人は大人ではないし、30代とか40代でも大人とは言いきれない人がたくさんいるのも事実だ。

世間では年齢によって人生のレイヤーみたいなものが設定されてて、そのレイヤーによれば20歳というレイヤーは子供と大人を隔てるポイントとなってるようだ。

20歳にならないとお酒も飲めないしタバコも吸えない、でもなぜだかアダルトは18歳からOKですよ、ってなんだそれ。

よくよく考える必要すらなく、世間一般の「大人」の定義もやっぱり単なる空気感でしかない。

ずる賢い大人たちが「大人」の定義をして勝手に子供と大人を年齢で判断する。

そんなだから大人は大人になりきれないし、子供も子供で理想的な大人像とか目指すべき大人像みたいなのを描けなくなっていくのではないか。

そもそも言語なんてものはすべて抽象的なものであって、言葉は何かを表現しているようでしていない。

言語化された瞬間に対象は単純化されてしまうから、あるがままの対象の姿を描くことはできない。

これが言語の限界でもあるし、誤読される原因でもある。

きっとウィトゲンシュタインも同じような気持ちだったのではないか。

 

人生の辞書から消えてほしい言葉

これは別に、自分が大人になりきれていないのを社会とか大人のせいにしようとしているわけじゃない。

多分世の中が今よりも穏やかで人間も善人で溢れかえっていたとしても、やはり自分は大人になりきれないピーターパン症候群になるんじゃないかと思ったりもする。

でも、少なくとも自分は子供のままでいたいとか大人になりたくないとか思ってないし、大人の世界に憧憬を抱いていた子供時代もあった。

人生のレイヤーからすればすっかり青年おじさんの仲間入りを果たしたような年齢だけれど、身体的かつ精神的な面ではまだまだ子供だと思ってる。

それは子供への憧憬があるのではなくて、単純に若々しくありたいという願望だ。

周りの大人たちを見ていても、どんどん覇気がなくなって身体的にも精神的にも衰えていくのを見ると、少なくとも自分は大人の腐敗化現象には抗っていきたいと感じる。

どうしてそんなに大人になるのが嫌なんだろう?とふと考えてみると、子供の頃によく耳にした大人たちの言葉が頭をよぎる。

その中で強くトラウマ的に頭に刻まれているのが「仕方ない」という言葉だ。

正直なところ「仕方ない」という言葉がこの世で一番大嫌いで、辞書から消えてなくなればいいと思ってる言葉の一つである。

「仕方ない」ってなんだろう?何がどう仕方ないんだろう?

大人たちは自分の力ではどうしようとできないことが起こったときによく「仕方ない」という言葉を使う。

仕事だから仕方ない、時間がないから仕方ない、そういうものだから仕方ない。

いやいや、それは何の説明にもなってないでしょ、といつも思う。

仕方ないことを仕方なくしてるのは自分たちであって、あんた達がしてるのはただの妥協。

人生には時に妥協も必要だけれど、大事な場面で妥協するのは大人としてどうなのか。



「大人になる」とは意思に反したことにイエスと言うこと

言語のほとんどは抽象的だから「仕方ない」という言葉も抽象的で何も説明してはいない。

大事な部分を削いで研いで切断して出来上がった言葉が「仕方ない」だ。

妥協よりも使いづらく、運命よりも深みがない。

大人たちがその場しのぎのために流用する言葉、それが「仕方ない」なのだ。

子供と大人の世界は違うし、子供の論理が大人の世界で通用することは少ない。

逆に大人の論理も子供の世界では通用しないし、使っている言葉の意味や重みといったものも変わる。

だから異なるレイヤーの人と話すときは言葉を適切に選択する必要があり、その場しのぎの言語を使って何かを説明した気になってはならない。

子供の頃に「仕方ない」という言葉を死ぬほど浴びてきた自分は、「あぁ、大人になるってのは自分の意思に反したことにイエスと言うことなんだな」と思ったのを覚えてる。

その記憶が大人になった今でも、協調性のなさや社会風潮に中指を立てる気質につながってるのかもしれない。

他人や社会の趣味嗜好に自分を合わせることは、生きていく上で「仕方ない」ことかもしれない。

でもそれを良しとしてしまったら、自分の中の何かが崩れ落ちそうで受け入れることができない。

興味のないことに興味を抱くのは、無理やり勉強机の座らされる気分に似てる。

眠いしダルいしめんどくさいし、話終わっても何も記憶に残ってないこの世で一番無駄な時間だ。

 

行き着く先は誰もが同じ

別に社会を恨んじゃいないし大人が嫌いなわけではない(俗物的な大人は嫌いだけど)。

子供のままでいたいわけでも大人になりたくないわけでもない。現実が憎いわけでも夢を見ているわけでもない。

ただ他人や社会の流行りを自分の人生に反映させるのをやめただけである。

形骸化した自分にはなりたくないし、常に自分の価値観に沿って生きるためにも。

よくよく社会的なトピックや他者の話題を聞いてみると、大抵は同じようなことを何年も同じように述べているだけに気づく。

文句と愚痴について話せばマシンガントークのように何時間も喋っていられる癖に、将来の展望のようなものを聞けば途端に口を閉ざす。

そんな人たちに自分を合わせていると、自分のやるべきことが何なのかすら見失ってしまう気がしている。

他人の興味は自分の興味ではないのは当然なんだけど、社会的孤立感や疎外感みたいのを感じると、他者を求めて他者に合わせてしまう瞬間がある。

あれこれ考えるよりも脳死の状態で生きてたほうが楽だし悩みも少ない。

どうせ死んだら何も残らないんだし、どう生きたって行き着く先は同じだ。

だとしても、今はまだ踏ん張って生きてくだけの熱意と闘争心と情熱は持っている。

流されるのではなく抗う生き方、自分の興味をどこまでも追求する姿勢、そういったものが折れてしまわない限りは今はまだ死ぬべきタイミングではないと思う。

行き着く先は誰もが同じ、棺桶の中で涙を流すよりも生を実感して涙を流す生き方をしていきたい。

Pocket




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。