人は決して分かり合えず、世界は多数派で支配されている。




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最終更新日 2022年7月28日

人は他人の痛みには鈍感だ。

自分の苦しみや悲しさ、痛みや悲劇に対する反応を、そのまま他人に適用することができない。

テーブルに小指を思いっきりぶつけて泣き叫んでも、他人が同じような目にあったときは「うるさい」の一言で片付けてしまう。

自分に不幸な出来事や嫌なことがあったときは、自分がどれだけ大変な目にあったかをグチグチと語るが、他人の同じような話を聞くときには「自業自得」だの「仕方ない」と冷たくあしらう。

基本的に人間は自分の痛みしか理解できない。

自分の経験則から他人の痛みをある程度想像できるかもしれないが、本人が感じている痛みや悲しみといったものは本人にしかわからないのだ。

他人の悲しみに共感しているときも、つらくて悲しいのはある程度想像できるが、その出来事を自分事のように体験することはできないし、本人の感情をすべて理解できることはない。

言い方は悪いが、私たち人間は自分の想像力と主観によって、自分勝手に他人の出来事を解釈し、自分に都合のいいように他人に共感しているのだ。

 

痛みは決して分かり合えない

共感や同情が人間関係において大切なのは言うまでもない。

この能力が欠如している人は良好な人間関係は築けないだろうし、周りの人たちからも敬遠されたり嫌われたりする。

でも、人が本質的に他人のことを理解できないのだとすれば、なぜ他人のことを理解した気になっている人のほうが好感が持たれるのだろうか?

悲しみは他人と分かち合えば半分になる、という言葉があるが、それは本当に分かち合っているわけではない。

本人に起こった出来事は本人にしかわからず、1人でどうにか折り合いをつけて解決するしかないのだ。

傍にいてくれるだけで悲しみが和らぐというのも、どちらかといえば他人の存在によって悲しみが和らぐというよりも、時間の経過によって痛みが癒えていくと言ったほうが正しいかもしれない。

どんな出来事でも、時間が経つにつれて痛みは和らいでいく。

両親や愛する人の死でさえも、時間の経過とともに傷が癒えていき、気持ちが楽になっていく。

失った直後の痛みを、そっくりそのままずっと感じながら生きている人はいない。

もしそう見える人がいたのだとすれば、それは単なる体裁にすぎず、「自分は悲しんでいる」「これだけ悲しむことができる人間だ」と世間や周りの人たちに誇示しているのだ。

 

非情なのはムルソーか世間か

世の中ではなぜだか、深い痛みを感じられる人が優しい人だと思われている。

一方、あまり感情を表に出さず、どんなことにも強い精神力で耐え抜く人は、周りからは冷たい人間だと思われてしまう。

アルベール・カミュの「異邦人」という作品の中で、主人公であるムルソーは正当防衛とは言え、拳銃で人を撃ち殺してしまった。

それも、一度撃って相手が倒れた後に、特に理由もないのにその死体に向かってさらに何発かの銃弾を撃ち込んだ。この行為が後に不条理なものになるとも知らずに。

ムルソーはこの事件の前に母親を亡くしていた。

だが、彼は葬式のときに一切涙を流さなかった。

本当は母親のことを心の底から愛していたのだが、彼の愛情表現は世間一般的なものとは違い、母親の死に対して泣くことが正しいとは思わなかった。

葬式に参加していた周りの人たちは、息子が母親の死に対して一切涙を流さず、悲しみも見せない姿を冷淡だと非難した。

母親が死んだら取り乱し、涙を流すのが普通なのだと。

この葬式の後に、ムルソーは人を殺めてしまった。

そして何とも不条理なことに、正当防衛で相手を殺してしまったにも関わらず、ムルソーは死刑を言い渡される。

母親が死んでも一切涙や悲しみを見せない冷淡さ、拳銃で相手を撃ち、死んだ後に特に理由もないのに銃弾を何発も撃ち込んだ非情さ。

陪審員たちはムルソーを冷淡で非情な人間だと判断し、死刑を求刑したのだった。

さて、本当に非情なのはムルソーだろうか、それとも世間だろうか?



多数派という暴力

これはまさに現代でも日常的に見られる光景である。

悲しみを表に出さない人を冷淡だと揶揄され、少しでもおかしな行動をすれば異端だと思われる。

現代社会の中で周りの人たちとうまく付き合い、マトモに生きていくためには世間一般の常識に自分を適合させなければならない。

悲しいことがあったら泣き、周りの人たちと違うことはしない。

大多数の人たちがするような普通の行動をし、意味もなく余計なことはしない。

これがこの世界で生きるために必要なことなのである。

しかし、他人の痛みを本気で理解できないのに、わざわざ悲しみの感情を作り出すのはおかしなことではないのだろうか?

自分の愛情表現が一般的には違うからといって、それは果たして非難されるべきことなのだろうか?

DVなどが正しい愛情表現だと言っているわけではない。

感情のコントロールに長けた人間が、感情を出さない愛情表現をしていることが、果たして間違いだと言えるのだろうか?ということだ。

いつだって勝つのは「多数派」という暴力を振り回す側なのである。

 

多様性は何の意味もない

生きていればたくさんの出来事が起こる。

悲しいことから嬉しいこと、つらいことや苦しいことなどたくさんあるだろう。

その1つひとつにいちいち感情を爆発させ、振り回されていれば精神的に疲弊してしまう。

だからこそ、感情をコントロールする術を学ばなければならない。それが成熟した大人というものだろう。

でも世間は、そんな人をムルソーのような「異邦人」だと判断する。

近年は多様性だのなんだの言われているが、他人を主観で判断し、常識から外れた人を異端呼ばわりするのは全然変わっちゃいない。

他人の痛みに鈍感である人間が、感情を取り繕って悲しんでいる姿こそ異端に見えるのだが、どうやらそんなことを考えている私こそ異端であるようだ。

現代社会の中でうまく生きるのは本当に大変だと実感する毎日である。

多様性なんてものは、人間には何の意味もないのだ。

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