温厚な人とはどんな人なのか?「優しい人=温厚な人」ではない。




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最終更新日 2022年7月26日

「温厚な人」と聞くと、あなたはどんな人を思い浮かべるだろう?

一般的には「温厚な人」というと、怒らない人や心が広い人、器が大きい人や優しい人などが挙げられる。

自分もこれまでは、温厚な人は優しくて心が広い人だと漠然と思い込んでいた。

でも本当にそうなのだろうか?

人は優しければそれでいいのだろうか?

心が広いことは、本当に人間として優れていることなのだろうか?

どんなに嫌なことがあっても怒らない人は、本当に温厚な人だといえるのだろうか?

現代では言葉の意味を自分たちの都合のいいように解釈する人が多い。

「自立」という言葉にしても、世間では「1人暮らし=自立」だと決めつけているが、人間としての本当の自立とはそんなものじゃない。

これについては以下の記事の中で詳しく述べている。

【自立=一人暮らしは勘違い】自立とは他人に依存していない状態のこと。

2022年6月18日

「温厚な人」というのも自立と同じく、現代人の都合に合わせて「優しくて心が広い人」だと解釈されているだけではないだろうか。

 

温厚な人とは

社会の中ではなぜか「怒らない人」が尊敬される。

嫌なことをされても笑顔を保ち、挑発されたりバカにされたりしても笑い飛ばし、むやみやたらと感情に動かされない人だ。

たしかに、一方的に感情に動かされないことは大事である。

感情的な言動は理性をどこかへ置いてけぼりにし、自己中心的な行動へと駆り立てる。

恋愛において感情論が致命的となるのは、自分目線でしか物事を考えられなくなってしまうからだ。依存などはまさにその典型例だろう。

感情的な人間と付き合うのは疲れる。

だからこそ人は、理想のタイプにしばしば「優しい人」「心が広い人」を候補に挙げる。

優しくて心が広い人は感情的な行動も少ない。理性を持って冷静に物事を考えることができる。

まさしく「温厚な人」に見えるだろう。

 

世間の「温厚な人」とは自分の利益になる人

でも、優しい人や心が広い人は、それだけで本当に温厚な人だと言えるのだろうか?

近年は、車のあおり運転やら無差別殺人など事件やトラブルが絶えない世の中だが、なんだかんだいって現代には優しい人や心が広い人のほうが多い。

特に日本人は、他人に優しい国として他国からも人気だ。

みんな自分に良くしてくれる人と付き合い、自分が気持ちよく関係を築ける人と仲良くし、気の合う人を友達と呼ぶ。

温厚な人はまさに友達や恋人にぴったりの人間だと思うかもしれない。

しかし、肝心なことを忘れてはいけない。

人間関係の根底には少なからず「自分の利益」が存在しているのだ。

温厚な人が社会的に評価されるのは「怒らないから」「優しいから」「心が広いから」である。

しかしそれは、「温厚な人」を自分勝手に解釈し、自分の利益に叶う相手だからそう評価しているに過ぎない。

つまり、「自分の利益になる人⇒温厚な人」という解釈になっているのだ。

だから人は温厚な人が好きなのである。

 

温厚な人とは適切に怒りを用いる人

本当の温厚な人とは、何をされても怒らない人のことではない。

誰にでも優しくて、気遣いができて、心が広くて、常に笑顔を絶やさない人でもない。

人生哲学の祖とも呼べるアリストテレス風に言えば、温厚な人とは、「しかるべき人に対して、しかるべき方法で、しかるべき時に、適切に怒る人」である。

温厚な人は憤るべきタイミングを間違えず、本当に必要なときに「怒り」の感情を適切に用いるのだ。

世間では他人から説教されたり注意されると「余計なお世話だ」とよく口にする。

「自分が何をしようがあなたには関係ないんだから黙っておけ」というわけだ。

たしかにそのとおり、人生は他人にあれこれ口出しされるものじゃない。自分の好きなように生きるものである。

しかし、注意してくれている相手の気持ちを一度だって考えたことはあるだろうか。

その人は、貴重な時間を費やしてあなたのために言ってくれているのだ。

あなたは自分ことで精一杯かもしれないが、相手は自分のこと以上にあなたのことを思って怒ってくれている。

たまに、嫉妬や妬みの感情から相手に注意したり説教したりする人もいるが、それが単なる嫉妬なのか本当に自分のことを考えてくれているのかは大体すぐわかるだろう。

言動に嫌味や皮肉が混じっている場合は大抵単なる嫉妬に過ぎない。

怒りは自分の感情を満たすために用いるものではなく、他人のために用いるものなのだ。

そして、それができる人こそ本当に温厚な人なのである。

嫌なことをされたりイライラすることがあったからと簡単に怒りの感情を持ち出すのは、お腹が空いて泣く赤子と何ら変わりがない。

 

過度な優しさは人をダメにする

おそらく「優しい人」や「温厚な人」のことを悪く言う人はいないだろう。

優しい性格をしていれば他人からも好かれやすく、友達もたくさん増える。

だから私たちは子どもの頃から、「人には優しくしなさい」と親や学校の教師から教えられる。

だが、優しさは時として人をダメにしてしまうことがある。

よく言われるのは、「甘やかしてばかりいると人はダメになる」というものだ。

他人から優しくされすぎたり、何をしても許してもらってばかりいると、どんどん調子に乗って自分に都合のいい人間関係しか求めなくなる。

そして、他人が常に優しい態度で接してくれるのが自分の中の人間関係のデフォルトモードになる。

ちょっとでも自分に気に食わないことがあったりキツいことを言われれば、「そんな些細なことで怒るなんて気が小さいね」と言い、相手のことを性格が悪いと思ってしまう。

これも「温厚な人」同様、「優しさ」という言葉を都合よく解釈しているいい例だ。

優しさに囲まれている環境では、自分がいかに恵まれているのかがわからなくなってしまう。

 

優しい人が温厚な人とは限らない

現代人がよく言う「些細なことで怒るなんて気が小さいね」という言葉は、自分の思い通りにならなかった言い訳として使われていることが多い。

もちろん、人の中には本当に些細なことで怒鳴り散らす人もいる。

コンビニにお気に入りのパンが売ってないだけで不機嫌になる人もいるし、電車に乗り遅れてイライラしたり、ちょっと肩がぶつかっただけでイチャモンをつけてくるバカな人もいる。

しかしそれを差し引いても、相手のことを悪く言うときは自己中心的な目線でしか語っていないケースが大多数だ。

自分の思い通りのことをしてくれない人を見ると、あの人は優しくない、冷たい、性格が悪いなんてレッテルを平気で張り付ける。

でも、温厚な人と優しい人は違うのだ。

優しすぎる人は他人を甘やかし、人間的にダメにしてしまう可能性があるが、温厚な人は怒りの感情を適切に使うことができる。

もう一度言うが、他人のために本気で怒れる人こそ、温厚な人なのである。



温厚さは感情のコントロールが鍵

温厚な人とは適切に怒りを使うことができる人だと述べたが、それには感情のコントロールが必要だ。

アドラー心理学でも述べられているように、「怒り」などの感情はコントロールが可能なのである。

アドラーは「嫌われる勇気」という本の中で、怒りという感情がコントロール可能である例を見事に叙述している。

例えに使われているのはこんな例だ。

子どもが悪いことをし、それに対して怒っている母親がいる

母親は顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげて子どもを叱っているが、そこに電話がかかってきた。

母親は電話に出たが、相手が子どもの学校の先生だとわかると、急によそ行きの高い声で丁寧な挨拶をして対応している。

怒りという感情がコントロール不可能だったなら、電話に出た瞬間に対応を変えることはできないだろう。

この例からわかるように、人は怒りを含めた感情のコントロールが可能であり、温厚な人とは感情のコントロールに長けた人間であることがわかる。

 

適切な状況で適切な感情を使う

温厚な人に限らず、自分のことを「大人」だと思っているのであれば、感情のコントロールは必須だ。

優しい人が温厚な人ではないにしろ、歳ばかり重ね、些細なことで感情をあらわにして怒る人とは誰も付き合いたくはないだろう。

アリストテレスが述べているように、温厚な人になるには感情をコントロールしつつも、しかるべきタイミングで適切な感情を用いるようにしなければならない。

そして、そのためには普段から自分の感情の動きを観察しておくことが大事だ。

何度も言うが、現代では言葉の意味を自分の都合のいいように歪曲して考える人が多い。

「性格がいい」という言葉も、「自分にとって気持ちのいい相手かどうか」で性格の良さを定義している。

そうした表面的な概念や定義にはなんの意味もない。

本当に温厚な人でも、万人にとっては温厚な人とは思われないのが現代なのである。

 

人間の本性は追い詰められたときに出る

でも、現代では温厚な人が温厚な人だと思われないからといって、それは温厚な人に価値がないというわけではない。

たとえ周りからどう捉えられていようが、温厚な人は人間的に優れている人格者である。

SNSのフォロワーでマウント取り合戦している人たちにはわからないかもしれないが、人間的な価値は決して数値化などできない。

それと同じく、学歴や職歴、肩書きや地位といったものでも相手の人間性なんてほとんどわからない。

犯罪者のいつも通りの日常を観察していても、その人が犯罪者であるかなんてわかるはずがない。

人の人間性が表に出るのは、本当に追い詰められたときだけである。

そのほかは仮面をつけてよそ行きの取り繕った姿をさらしているだけなのだ。

だからこそ、本質的な価値を見極める洞察力が必要なのである。

温厚な人は世間的には評価されないかもしれないが、わかる人はきちんとわかってくれる。

言葉の意味が歪曲されやすい現代では、100人の理解者よりも10人の理解者のほうが価値があったりする。

「毎日目の前のことに一生懸命であり、今の時間を丁寧に生き、他者にも自分にも温厚である人こそ、本当に価値ある生を送れるのだ」

 

温厚さとは人間性

温厚さを身につけるには、自分の感情を徹底的にコントロールしなければならない。

一時の感情に振り回されるのではなく、理性で感情をコントロールする。

人間と動物が違うのは、人間には自分の頭で考える理性があるからだ。

欲求や欲望、嫉妬や怒りの感情に振り回されるのは動物と変わりがない。

ライオンには牙が、クマには爪があるように、理性は人間にのみ備わっている武器である。

しかし、その武器も普段から磨いておかなければすぐに錆びついてしまう。

理性で感情を制するのは難しく、感情のコントロールができるようになるにはかなりの時間もかかる。

だが、普段からめんどくさいからと感情的な行動ばかりとっていると、人間的にまったく成長していない大人になってしまう。

中年の大人が欲求や欲望、嫉妬や憎しみといった感情からくだらない事件を起こして捕まったりしているのは、人間性を磨くことを怠っていたからだ。

私たちは理性を使って動物から人間へ脱皮し、感情を制さなければならない。

温厚さとは、言い換えれば人間性である。

感情を制し、理性で物事を判断し、自分にも他人にも適切な感情を用いることができる人。

温厚な人とは優しさを履き違えず、感情を適切かつ巧みに利用する、人間性に優れた人なのである。

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