最終更新日 2023年7月7日
こんにちは、竜崎(@ddd__web)です。
人は誰しも自らの「快楽」に従って自分の行動を決める傾向があります。
食欲や睡眠欲、性欲といった人間の基本的な欲求も、根底には快楽を求める人間の本質的な欲求が関係していますよね。
人が本能的に快楽を求めるのは、生きるために必要であると同時に、子孫を残すという遺伝子の目的にも合致するからです。
一般的には、理性と知性で欲をコントロールする人のことを「禁欲主義」、快楽が生きる目的と考える人のことを「快楽主義」と呼びます。
言葉の意味だけを考えると、快楽は開放的で自由奔放なイメージがあり、禁欲は我慢やストイックといったイメージがあるでしょう。
ですが、「快楽」の本質的な意味はそう単純なものではなく、快楽に従って生きることも悪いわけではありません。
さきほども言ったように、快楽を追い求めるのは、子孫を残すためには自然な行動でもあるのです。
しかし、快楽の意味を履き違えてしまうと、人生を棒に振ってしまう危険性があるのも知っておく必要があります。
今回の記事では、ストア派の禁欲主義とエピクロス派の快楽主義の違いを解説していきます。
目次
ストア派の禁欲主義
まずは、一般的には禁欲主義者として知られる哲学の一派である、ストア派の禁欲主義について見ていきます。
ストア派の「ストア」という言葉は現代でいう「ストイック」という言葉の語源であると言われており、ストイックに禁欲的なイメージを抱く人も多いでしょう。
禁欲主義者とは、一般的には「我慢すること」「ストイックに生きる人」というイメージがありますが、これは実は大きな誤解です。
というのも、ストア派の禁欲主義は欲をコントロールしながら生きるのは間違いありませんが、それでもしっかりと快楽を感じながら生きています。
禁欲主義の快楽
禁欲主義の快楽とは、自分の理性と知性を使って欲をコントロールすることで得られる快感です。
人間の代表的な三大欲求である「食欲」「性欲」「睡眠欲」を自らの理性と知性で抑制することにより、人は征服感にも似た快楽を実感できます。
欲求を自らの理性と知性でコントロールすることで得られる快感。
これは決して強がりなどではなく、禁欲主義の人はやせ我慢をしているわけではありません。
禁欲がもたらす快楽には他人は一切介入せず、自分1人でいつでも感じることができます。たとえば、断食などはもっとも簡単に禁欲主義の快楽を実感できる行為です。
快楽を感じるためにわざわざ物理的な刺激を求めたりする必要もなく、外的な出来事に頼る必要がないため、禁欲主義の人の幸せにはお金は必要ない。
ただ自分の欲をコントロールする術を学び、しっかりと自分の人生を自分の選択で生きているという感覚が、禁欲主義者の生きがいでもあります。
ストア派の人たちも、自らを禁欲主義と考えていたわけではなく、ただ欲をコントロールすることによる満足感がより良い人生につながると思っていたのです。
禁欲でアパテイアを目指すストア派
ストア派は、言うまでもなく禁欲主義側の人たちです。
自分の欲求や欲望、情念といったものをコントロールすることで、自らの人生の舵を握っていることに喜びを感じる。
たまに、「快楽を開放してこそ自由を感じられる」と勘違いをしている人もいますが、快楽の開放の先にあるのは自由ではなく、後悔と虚無感です。
自由とは欲の開放によって得られるものではなく、欲を失くしたその先にあるもの。
ここで言う欲を失くすというのは「我慢する」という意味ではなく、ストア派が提唱している「自然に従って生きる」ということを理解した先にたどり着ける境地です。
ストア派の人たちは禁欲主義的な思想に基づき、自然に従って生きることで欲を失くし、アパテイア(不動心)を目指すことが人間にとって最高の自由であり幸せな生き方だと説いていました。
欲望をコントロールし、欲望ではなく自然に従って生きる。意識せずとも欲を失くし、自分の人生に集中してより良く生きる。これはストア派の目標でもあったのです。
ストア派の禁欲は「我慢」とよく誤解されがちですが、彼らには我慢しているという意識は微塵もありませんでした。
あったのはその逆の、欲を手懐けることで快楽を感じる、誰よりも自由で幸せな人生です。
ストア派について詳しく知りたい人は、以下の記事も読んでみてください。
お金と娯楽に頼らない快楽
現代人が必死にお金を稼いでいるのはお金で娯楽を消費し、そこから快楽を得たりストレスを発散するためです。
しかし、その論理ではたくさんの快楽を得るためには、たくさんのお金が必要になってしまいます。
現代の娯楽のほとんどはボランティアではなくビジネスとして消費者に提供されており、消費者である一般人はお金と交換して娯楽を消費しているのです。
ですが、禁欲主義の快楽は娯楽から受け取るわけではありません。
その意味するところは、自由な時間を差し出してまで労働に精を出さなくてもいいということ。
快感を感じるためにお金は必要としないため、労働でお金を稼ぐ必要性も低くなる。
「人生楽しんだもん勝ち」というフレーズも、多くの人はお金の対価として楽しみを受け取って人生を謳歌しますが、禁欲主義ではお金と娯楽に頼らずとも自らの自制心によって人生を楽しく生きられます。
これを自己満といってしまえばそれまでですが、そもそも人生は自己満足的なものに過ぎないのですから、禁欲主義の快楽が自己満足的なものであっても何の問題もないでしょう。
エピクロスの快楽主義
次は、ストア派に対立すると言われる、エピクロス派の快楽主義について見ていきましょう。
「快楽」という言葉には実にさまざまな意味が当てはまりますが、具体的には、快楽という言葉の中には「物理的な快楽」と「間接的な快楽」の2つが存在しています。
どちらも快楽としての言葉では同じものでも、両者が意味するところは別物です。
そしてエピクロス派の快楽主義も、一般的なイメージとはまるで異なっていて、ストア派と同じく心の平穏を大事にする快楽を求めています。
物理的な快楽と間接的な快楽
さきほど述べた「物理的な快楽」というのは、体が直接的に受ける快楽のことです。
たとえば、おいしいものを食べたときや気持ち良いマッサージを受けたとき、あるいは性行為をしているときなどに感じる快楽のことを指します。
この物理的な快楽は基本的には身体的な事柄に関わっており、身体に直接影響があるものは大抵物理的な快楽に属するものです。
それに対し「間接的な快楽」というのは、他人に褒められたときや何らかの勝負に勝ったとき、単純に自分の好きなことをしているときに得られる快楽が、間接的な快楽になります。
間接的な快楽は外部的な事象によってもたらされるものではなく、自分の内面を基点にして得られる快楽です。
たとえほかの人が快楽を感じていないことであっても、自分の内面の意思や心の状態によっては、どんな事柄からでも快楽を感じることができるのが特徴となっています。
- 物理的な快楽⇒体が直接的に受ける快楽
- 間接的な快楽⇒自分の内面を基点にして得られる快楽
快楽主義者は本能的な生き方
人間は基本的にこの2つの快楽、物理的な快楽と間接的な快楽の両方を追い求めながら生きています。
自分の行動を振り返ってみてもわかるように、人は行動の結果に快楽が伴っていない場合、自ら行動を起こすことはほとんどありません。
食べ物を食べること、たくさん眠ること、異性と性行為すること、他人から認められること、お金をたくさん儲けること、遠い地へ旅行に行くこと、これらすべては快楽を得ることを目的としていて、何度も言うようにそれは人間の本能的な行為でもあるのです。
快楽主義者は、常に目の前の快楽に従って生きています。
つまり、本能的な生き方こそ「快楽主義」という言葉が意味するところです。
しかし、エピクロス派の快楽主義は、このような意味とはまったく異なります。
心の平穏の快楽を重視するエピクロス派
快楽主義で有名な学派としては、「エピクロス派」がもっとも有名です。
エピクロス派はよくストア派と対立すると言われますが、エピクロス派の快楽主義は、先述したような常に快楽を求める生き方とは違います。
エピクロス派の快楽主義は、隠遁した生活から得られる心の平穏、「アタラクシア」を達成することで快楽を得るというものです。
現代人が追い求めるのは物理的な快楽がほとんどですが、エピクロス派の場合は間接的な快楽、その中でも心の平穏状態から快楽を獲得する生き方となっています。
心が平穏な状態である「アタラクシア」で快楽を得る生き方。
エピクロス派の快楽をおかしなものと考える人もいるでしょう。
多くの人は性行為や美味しいものを食べたりするときに感じる快楽こそ幸せだと思っていて、内面的な状態から得らえる快楽には見向きもしません。
実際、自分の周りにも物理的な快楽を重視する快楽主義者はたくさんいますし、多くの人たちは目の前の快楽を刹那的に満たしながら生きています。
「パチンコで買ったから風俗にいく」「ボーナスが入ったから焼肉を食べる」「ブランドものを買うことに喜びを感じる」といった人たちが現代を代表する快楽主義者といえるでしょう。
しかし、そうした事柄から得られる快楽は刹那的なものであり、本当に心を満たしてくれることはありません。
物理的な快楽は長続きはせず、トレッドミルを走るかのように次から次へと快楽を満たしていないと満足できなくなってしまう。
物理的な快楽にハマることの怖さはここにあります。
エピクロスもそうした快楽の危険性を理解しており、だからこそ隠遁生活から得られる心の平穏、アタラクシアでの快楽を目指していました。
まとめ:禁欲主義と快楽主義はどちらがいいのか
今回の記事では、ストア派の禁欲主義とエピクロス派の快楽主義の違いを解説してきました。
まとめは以下のとおりです。
- ストア派の禁欲主義は、自然に従って生きることで欲を失くし、アパテイア(不動心)を目指すこと。
- 禁欲主義の快楽は、欲求を自らの理性と知性でコントロールすることで得られる快感。
- 禁欲主義の快楽にはお金はかからない。
- エピクロス派の快楽主義は、隠遁した生活から得られる心の平穏、「アタラクシア」を達成すること。
- 快楽主義の快楽は、物理的な快楽と間接的な快楽。
ストア派の禁欲主義と、エピクロス派の快楽主義のどちらがいいのかと聞かれれば、「自分の好きなように生きるのが一番」としか言えません。
自分がその生き方で自由に幸せに生きられるというのであれば、快楽に従属して生きようが、消費者としてお金を湯水のごとく消費しても問題ないでしょう。自分の人生は自分だけのものだからです。
ですが、快楽に溺れる生活はふとした瞬間に嫌気が差し、自分の生き方に疑問を抱くようになります。
欲に溺れて刹那的な快楽を追い求めても、決して自由にも幸せにもなれません。実際に私がそうでした。
その先に待っているのは、欲の開放がもたらした「病気で動けない体」「生きる意味を失った人間」という結末です。
人は誰しも欲望を持っていますが、「欲を満たす生き方」か「欲を失くす生き方」かで人生の充実度はまるで違うものになります。
ここまで読んでくれた読者なら、どちらが真に自由であり、満たされた毎日を送れるかわかるでしょう。
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