最終更新日 2023年7月11日
こんにちは、竜崎(@ddd__web)です。
神学者であるラインホールド・ニーバーが書いたとされる「ニーバーの祈り」には、生きていく上でとても大切なことが書かれています。
神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ。
これは全体のはじめの一部を抜粋した文章に過ぎませんが、そこに記されているのは人生において「勇気・理性・知恵」が何よりも大事だということです。
はじめに言っておくと、私は別にキリスト教徒ではなく、どこの宗派にも属していません。
どちらかというと、「神は死んだ」と述べたニーチェに同意している人間で、神を信じていたり信仰もありません。
ですが、ニーバーの祈りは、私が人生の指針としているストア派の目的である、「より良く生きるため」にも通じるところがあります。
今回の記事では、ニーバーの祈りの意味について詳しく解説していきます。
目次
ニーバーの祈りの意味
ニーバーの祈りは今では古い格言として引用されることがありますが、その意味について深く考える人はほとんどいないでしょう。
しかし、はじめにも言ったように、ニーバーの祈りが述べていることは人生をより良く生きるための参考になります。
勇気と冷静さと知恵を持つことは、人生を生きる上で何よりも大切なものです。
以下では、それぞれの意味について詳しく見ていきましょう。
勇気がないから安定にしがみつく
私はこれまでニーバーの祈りに反し、変える勇気と受け入れる冷静さと見極める知恵を持っていなかったがために、人生の中で後悔する選択をいくつもしてきました。
変わらなければならないとわかっていながらも、どうしても変わる勇気を持てずに、ダラダラと時間を無駄に過ごしてしまったこともあります。
どうしようもできない物事に対しても、自分の欲求や欲望に負けて感情的に振る舞い、子どものように駄々をこねて周りに迷惑をかけたこともあります。
これらはすべて勇気と理性と知恵がなかったことによる後悔です。
人が人生のあらゆる面で現状維持を望むのは、心理学的にも明らかになっています。
仕事やお金といった生活に関わる部分において安定を求め、なにがなんでも失わないように必死に努力する。
自分のやりたいことよりも世間体を気にしたり、結婚と同時に牙が抜かれたように好奇心がなくなったり、やりたくもない仕事を生活費のために嫌々やり続ける。
こうした状況は、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気がないために陥る状態です。
安定を望むこと自体は悪いことではありませんが、人生は変化していくものであり、変わらない日常が続いていくものではありません。
勇気を持って何かを変えない限り、歳をとるにつれて人生は無味乾燥としたものになってしまいます。
変えられないものを受け入れる
人生の中には普遍的なものは何一つとして存在しません。どんなものであってもいつか必ず変化していきます。
たとえば、仕事にしても会社が倒産すれば終わりで、仕事がなくなればお金もなくなります。今の仕事や収入が生涯続く可能性はほぼゼロで、いつか必ず変化が訪れるでしょう。
こうした変化に対しては、人間はどこまでも無力です。
たとえどれだけ抵抗しても自分の力ではどうしようもできず、「生活があるんです!」と言ったところで、会社が倒産した以上、収入は途絶えてしまいます。
人生には自分の力で変えられるものと変えられないものがある。
会社の倒産や収入が途切れることは、自分の力では変えられないものです。一方、会社が倒産したことに対し、これからどうするか?といった部分については自分の力で変えらるものです。
倒産したことに対していくら泣き叫んでも結果は変わりません。それは自分の力では変えられないものです。
ですが、倒産したことをきっかけに何か新しいことをはじめようと思うかどうかは、自分の力で変えることができます。
自分の外側にある出来事の多くは、自分の力で変えられないもの。
自分の内側にある出来事は、自分の力で変えられるもの。
これはストア派の知恵でもあります。
ストア派であるエピクテトスは奴隷から哲学者になりましたが、彼は奴隷状態にあっても自らは自由で幸福であると考えていました。
たとえ奴隷であっても精神の自由、意志の自由までは誰にも奪われることはなく、自分の考え方次第で幸にも不幸にもなると知っていたのです。
ニーバーの祈りが言うように、自分の力で変えられないもの、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さが必要となります。
知恵を身につける難しさ
多くの人は自分の状況や環境を「変える勇気」がなく、自分の力で変えられない出来事を受け入れるだけの「冷静さ」も持ち合わせていません。もちろん、私もです。
思い通りにいかないことがあればイライラしてしまい、変えなければならないことにも妥協してしまうことがよくあります。
妥協と許容は似て非なるものであり、後者は能動的なものですが、前者は受動的なものです。両者の違いは精神的なストレスへと変換されます。
- 妥協⇒嫌々受け入れる、あるいは外部の力によって受け入れさせられる。
- 許容⇒自分の判断で受け入れる、外部の状況や環境は関係がない。
そしてさらにやっかいなことに、私たちは勇気と冷静さを持っていないだけでなく、自分の力で変えられないものと変えられないものを見極めることもできていません。
自分に降りかかった出来事の中でも、どれが自分の力で変えられるのか、どれが変えられないものなのか。ここの線引きはとても難しいです。
ニーバーの祈りでもストア派の教えでも、どちらも見極めることを知恵と呼んでいますが、現実にそれができる人はほとんどいないでしょう。
知恵を身につけることは、勇気を持つことや冷静さを持つことよりも難しいものなのです。
ニーバーの祈りが意味する知恵
ここからは、ニーバーの祈りが意味する知恵についてもっと深く考えていきましょう。
ニーバーの祈りでは、「変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する」ことを知恵と呼んでいます。
たとえば、自然災害などは誰の目から見ても変えることのできない出来事です。
地震や台風がどれだけ生活を破壊するかはわからず、それがいつどこでどのぐらいの規模で起こるのかも絶対にわかりません。
ですが、人は時にニーバーの祈りの知恵に反して、自分たちで変えられないことまで、自分たちでコントロールできると勘違いしてしまいます。
これはまさに、ニーバーの祈りが指す「知恵」がないからによるものです。
ある程度なら変えられるもの
たとえば、自分に降り掛かった出来事が自然災害ではなく、自分の家の火事の場合を考えてみましょう。
火事の原因にもよりますが、おそらく大多数の人は「もっと気をつけていれば火事を防ぐことができた」と思いますよね。
でも実際には、火事が起こるかどうかは自分の力ではどうしようもできないことです。
タバコをちゃんと消すなり、ガスの元栓を閉めるなり、ある程度は自分の力で火事を未然に防げるかもしれませんが、最終的に火事が起こるかどうかは自分の力ではコントロールできません。
火事が起きる確率は下げられても、実際に火事が起こるかどうかまではコントロールできない。
どんなに気をつけていても、窓から入る太陽光がガラスに反射して絨毯に火をつける可能性だってあります。
もしくは、隣の家の火事が自分の家まで燃え移る可能性もゼロではありません。
ここで重要なのは、ある程度なら自分で変えられるが、完全には変えられないという点です。
多くの人はこうした場面で、変えられるものと変えられないものの区別を間違えてしまいます。
変えられなかったことは冷静に受け入れる
さきほどの火事の例のように、ある程度なら自分で変えられても、最終的にはどうなるかわからない場合、「本当は自分の力でどうにかできたはずなのに」と勘違いしてしまいます。
自分の力でどうにかできたのに、それがどうにもできなかったとき、人は罪悪感を抱くものです。
自分のせいではないことでも自分のせいにし、すべて自分が悪いと責めてしまう。
ニーバーの祈りにある、「変えられるものと変えられないものを識別する知恵」とはまさにこのことです。
人が思い悩むことの多くは、自分では変えられないことまで必要以上に自分で背負い込んでしまうことにあります。
ですが、それは別の誰かに責任転嫁すればいいということでなく、自分の非を認めないということでもありません。
人は自分で変えられるものの範囲を勘違いし、すべて自分次第でどうにかできると思い込んでしまう、と述べているだけです。
大事なのは責任転嫁することではなく、変えられないものを受け入れる冷静さを持つことです。
勇気と冷静さと知恵を持とう
自分の力で変えられるものは、完全に自分の内側にあるものだけです。
自分のこれからの行動、生活、意志、計画、目標といったものは自分の力で変えることができます。
私たちはそれらを変える「勇気」を持たなければなりません。
ですが、それ以外の外的な出来事は、自分の力で変えられないか、ある程度しか変えられないものです。
何度も言うように、人は自分ではどうしようもできないことをどうにかしようとするから思い悩みます。
私たちはそれらを受け入れる「冷静さ」を持たなければなりません。
人生に嫌気が差すときは、変えられるものを変えず、変えられないものを無理やり変えようとしているときです。
そうした勇気と冷静さが欠けた行動は、心の平静を大きく乱します。これはストア派でも戒められていることです。
ストア派が目指すのは、何事にも動じず、心の平静を実現した上でより良く生きること。
ニーバーの祈りとストア派の思想は共通することが多く、どちらも「知恵」こそより良い人生に必要なものだと説いています。
まとめ:ニーバーの祈りは無駄な悩みを減らす
今回の記事では、ニーバーの祈りの意味について詳しく解説してきました。
まとめは以下のとおり。
- ニーバーの祈りとは、変えられるものを変える勇気、変えることができないものを受け入れる冷静さ、変えることと変えられないことを見極める知恵の大事さを語ったもの。
- 勇気がない人は変化を受け入れず、安定にしがみつく。
- 変えられないものを変えようとするから悩むことになる。
- 変えられないものは、冷静さを持って受け入れなければならない。
- 知恵は生きていく上で大事だが、身につけるのは難しい。
ニーバーの祈りは、ストア派で言うところの「より良い人生」のために必要なことが書かれています。
神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ。
自分が変えられるものは勇気を持って変えていき、変えられないものは冷静さを持って受け入れる。
それだけで心が大きく乱れることが減り、自分のやるべきことに集中して生きていくことができます。
変えられるものと変えられないものを見極める「知恵」を身につけることは難しいですが、変えられるものは自分の内側にあるものだけだと考えておくのがいいでしょう。
自分の外側にある出来事は自分には変えられず、自分次第でどうにかできるものは勇気があれば変えられる。
これだけでも日常生活の中での悩みは格段に減るはずです。
ニーバーの祈りは、思い通りにいかない人生で勇気を失い、情報の波に溺れて冷静さを失い、なんでも思い通りにしようとする人への処方箋になるでしょう。
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